本日は「春山町」の地名由来について、宮田さんの執筆したものがございましたので、ご紹介いたします!
『今立町誌等によると「春山」の地名は、敷山神社の鎮座する山が、水間谷の尾根から張り出した形をしている事からとされる。「張る山」すなわち「春山」と呼ばれるようになったのではないか、とされているが、やや短絡的に思えてならない。
延長5年(927年)全国の神社2861社の中の一社として、春山の敷山神社は神名帳に記入され延喜式内社として、高い格式と古い歴史を有している。この事実を踏まえて考えても良いのではないか。
敷山神社の祭神は、大山祇神と志芸山津見神であるが、神々が生成された時、35神の中で山の神孫となったのが大山祇神であった。(古事記より)(志芸山津見神については解明していない。)
当時の民は山から多くの恵みを得ていた事だろう。その大切な神を祀った社が敷山神社である。ここで春山の地名との関連性に注目したいのは、敷山の意味である。敷は敷物を敷くのほかに、広く繁栄する、また「治める」の意味を持っている。民々の、神名を地名にしたいとの思いは、容易に理解することができる。
しかし、反面懼れ多いとの思いもあったであろう。とすれば、その意味を込めて、敷山(しきやま)ー治山(はるやま)ー春山(はるやま)としたのではないだろうか。また一方、現地名「春山」の「春」は、四季の1つ(3、4、5月)の呼称ではあるが、その他、元気よく繁栄するの意味も併せ持つので、山の繁栄を願って「春山」としたのではないか、とも考えられる。
古代から生活の中で山の恵みを享受し、深い信仰の念から、山の神、大山祇神を祭神とした敷山神社を尊崇し続けてきた所以が「春山」の地名となって現在あるのではないだろうか。(宮田 暁)』
山の恵みを昔から享受してきた方が、ますますの山の繁栄を願って「春山町」とつけたのでしょうか?
服間地区は、自然豊かで、たくさんの自然の恵みを受けています。
多くの住民の方が、服間の自然を魅力と感じています。
wrote会計補佐
地名の由来を紹介していたら、朽飯、領家…
藤木が抜けている!!!
とご指摘をいただきましたので、藤木の歴史のご紹介!
為永さんが執筆したものです。
『明治22年、服間村発足に伴い、役場が藤木区の成田藤左ヱ門氏の邸宅を借りて設置された。
役場は明治36年、区の外れの隔離病舎跡に移転、昭和30年の今立町迹合併まで続いた。
明治45年、服間村内の四小学校が統合して、服間小学校が発足、その校舎は藤木区に置かれ、現在に至っている。
藤木区は永い間、服間地区の行政、教育の中心地であり、それは区民の誇りでもあった。
戸数、人口の推移は、
明治42年 30戸、156人
昭和30年 29戸、136人
だったが、平成16年8月現在 26戸、111人。
過疎が進行している。(為永幸高)』
藤木町は、服間の中心地!
服間の人は、藤木で育つといっても過言ではありませんね!
いつまでたっても、住民の、地区の誇りとしての藤木町であってほしいですね!!
《藤木町といえば??》
★服間小学校のホームページ
★服間幼稚園・保育園のホームページ
★服間公民館のホームページ
★服間郵便局
★乙部商店
★南越ミート
wrote 会計補佐
本日は領家の地名由来です。
領家の吉田さんが執筆したものがありましたので、ご紹介いたします。
『「領家」は、由緒ありげな地名である。その由来には諸説あるが、古くは男大迹皇子(*1)の領地だったから、という。そのわけは、区内の地名に「皇子原」「天王」などがあるため。
また、幕藩時代「天領」(*2)で、代官の支配地だったためという。
区内の地名に「馬の倉」「鎧殿」「馬駈け」「御屋敷」等、それを偲ばせる地名がある。
今立町誌によると、荘園があった頃、その一部を公家に与えて領家と呼んだ。この地が、その「領家」職と何らかの関係があったため、との見方もできる。
いずれにしても服部谷の中間に位置するこの地が、ある種の特別な意味を持っていたことを忍ばせる。(吉田 寿)』
*1:のちの継体天皇のこと
*2:江戸時代幕府の直轄領
領家は領地としての意味あいが強いみたいですね!
wrote 会計補佐
残したい 伝えたい ふるさと服間 と題して、「服間ふるさとかたりべ会」が作成した冊子。
そこには、多くの服間の歴史や文化が記されていました。
ということで、このブログでも、少しずつ紹介していきたいと思います。
本日は、朽飯(くだし)町の地名の由来を、朽飯町の上道さんが執筆していましたので、それを紹介します。
『そもそも「くだし・朽飯」の地名は、読み方にしても文字にしてもまことに珍名、奇名である。
以前に福井新聞の書籍広告「福井県の珍名集」に武生の「余田(はぐり)」と「朽飯(くだし)」が例として出ていたほどであるが、未だにハッキリとした生い立ちを聞かない。
しかし、通説として「むかし、むかし」ある旅人がここの裏山の峠に来たとき腹が空いたので腰のおにぎりを広げた。何時もなら大丈夫だったおにぎりが、ここではもう腐っていた。
「この地は飯が朽ちるところだ」と言い、これを食べた旅人は腹下しを起こした・・・
これが「くちるめし」から「腹くだし」・・・「くさるめし」・・から「くだし」が生まれたと言われている。
又の説としては、大昔に朝鮮の「高句麗国」と「百済国(くだらのくに)」の戦争により「くだら」から追われ、日本海を流れ着いた落ち人たちがこの地に逃れてきて住みついたので「くだら」がなまって「くだし」となったとも言われている。
朽飯八幡神社の由来記によると、顕宗天皇の御代(485〜487)に「百済国」の恐理使主(奴理能美)(ぬりのおおみ)の孫で阿久太の男の弥和(みわ)をはじめ機織姫達が渡来し、この地に養蚕と絹織物業を広め発展させた事と、奈良時代の神亀三年(726)「正五位八架神」の神宮寺として「朽飯寺」(きゅうはんじ)が創建されていることから「朽飯」の文字は古来から生まれていた事がうなずける。
ただ「くだし」との読み方については、「くだらのくに」からと、先の「はらくだし」の背景からの結果かと考察できる。又「くだら」からの落ち人達の隠れ場所として、追手からも「嫌な場所、不吉で怖い場所」としてカモフラージュするにはもってこいの地名とも言えるのではなかったかと、愚論かもしれないが憶測としたい。
(中道 修)』
朽飯って他地域の方はなかなか読めませんよね…
皆さんも地名について考えた事ってありますか??
wrote 会計補佐
ふくま振興会のホームページやブログの内容が、国高地区自治振興会さんのブログで紹介されました。
紹介されたブログはこちら。
越前市は17地区に分かれていて、それぞれの地区に自治振興会があります。
各地区の自治振興会の広報活動は様々で、様々なツールを利用して、地区のPRなどをしています。
国高地区自治振興会さんのホームページやブログは、最近開設されたばかりにもかかわらず、とても多くの情報を掲載しています。
特にブログは、毎日更新されているようで、内容も自治振興会の活動のほか、市からの情報や、雑感も含め、知っているとためになるような情報ばかりです。
*このブログは…毎日更新は無理ですー。ご勘弁を…
●国高地区さんのホームページとブログのご紹介
国高地区自治振興会さんのホームページ
http://www2.ttn.ne.jp/~kunitaka/
国高地区自治振興会さんのブログ
http://kunitakatikujichishinkoukai.blogspot.jp
なお、その他の越前市の自治振興会のホームページなどの情報は、越前市自治連合会のホームページに掲載されていますよ!
越前市自治連合会のホームページはこちら
wrote 会計補佐